片岡「ひろし海と展望」

アクセスカウンタ

help リーダーに追加 RSS 代表・代議員(市長・議会議員)だけでなく自身も動こう。追想風 新市スポット案内 上狛小付近

<<   作成日時 : 2007/03/22 17:58   >>

トラックバック 0 / コメント 0




今回は[教育]から離れて、違う分野の報告と思っていましたが、ちょうど昨夜(3/21)NHKスペシャルの約三時間番組で「学校って何ですか?」をやっていました。いろいろ考える資料としてその番組で、パネラーとして出ておられた国の責任者[伊吹文部科学大臣]がどのように考えているのかを発言詳細で報告したいと思います。

(司会者) 今の公立小・中学校はある種のジレンマを抱えていると思いますが、そこから抜け出すにはどうすればいいのか、ボードに書いてください。
(大臣 )  学校・地域・家庭の連携    地方の自治能力の向上     政府の熱意
(司会者) 大臣 今まで行なわれてきた(過去20年間を振り返って)教育改革の方向性は正しかったのでしょうか。
(大臣 )  これは試行錯誤でやっていて、その時正しいと思って、やっていても、時代の流れにあわなくなっていたものもある。
(司会者) 今のご発言の「現状ではいろいろ大人からの意見や発言が多いですが、学校の主役は子どもたちであるから子どもたちの思いや意見を核として、学校を考えていった方がいい」という意見に大臣はどう思われますか。
(大臣 )  義務教育は憲法で保障された権利であり、又 子どもを保護する者の受けさせる義務でもあります。なおかつ義務教育にかかる負担は国民の税金で賄われているのですからそのようには行きません。ある程度社会の一員としてしっかりと育ってもらう。そのためにあると考えます。義務教育はそのようなものだと思います。
(司会者)  「「ゆとり教育」が導入されたのにもかかわらず、先生方に「ゆとり」がなくなったのは皮肉ですむのでしょうか・・・・
(大臣 )  話をはさむようですが、もともと「ゆとり教育」の「ゆとり」と言う言葉は政策的に使ったことはありません。80年代の改革はまず基礎学力をしっかりとつけて、その発展の応用の部分の学習も「総合学習」の中で行うことにしていたのですが、同じころ週休二日制が導入されて、土曜日がなくなることにより学習時間の絶対数が減って、今日のような忙しい、時間不足の状態ができてしまった。もう一度元に戻して土曜日に授業をするかは、財政面の理由もあり政治的な判断が必要。それと他の方も発言されていますが、校長には現行の制度や法律の中でももっと自由に編成したり、採用・導入できることがあります。教育長と校長が光っているところは学校も光っていると聞いています。そうでないところはどうしていくのかについては考えていかなければならないと思います。
(他のパネラー) 先生方に「ゆとり」がない、超忙しい状態がありますが、先生って生徒とかかわってなんぼじゃないですか。その忙しくしている状態をまず何とか。
(大臣 ) 国会答弁でも述べているのですが、先生のしなければならないことの中に事務が多すぎる。そして地域社会・家庭が崩壊している中でその役まで荷負っている。その中で黙々と頑張っている先生方が大多数であることをまず認めて欲しいと申しました。今申していますのは教師の数を増やすのではなく、事務処理をする人の数を増やすように努力しています。教師の給料をカットすることには慎重に対処しています。
(大臣 ) 今 東京の各方面での学校を取り巻く地域の力を自分たちの学校の向上と日常に結集することが重要と言われましたが、東京は政府から地方交付金を貰ってない自治体ですから、東京の常識は全国の非常識。地場産業があり、小さな商店が多い京都も同じこと。だけど教育にどのようにお金を使うかは地方自治体の考えることです。政府は教員給与の三分の一しかだしていません。・・・・・・・・今回はここまで


私の友達 N (前回登場の人) さんの追想より
画像写真は上狛小学校付近の商店街
access 旧山城町役場付近の信号を右折して3分(旧道に入る)

我々の中学時代には相楽郡七カ町村中学校区全部をめぐる郡駅伝大会があった。一区は笠置大橋から木屋を越え銭司の和銅遺跡まで(われわれより二・三年先輩のころは木屋峠を越えて和束に出た)、二区はそこから井平尾を右折して和束の白栖橋まで。三区は旧のJRバス奥畑線を加茂のほうに、四区は口畑から町内を抜け高田を越えて梅谷まで、五区はそこから24号線に出て北に行き、写真の上狛小学校まで、六区は旧道から24号線に出てそれを渡り、開橋も渡って精華の川西小学校まで、そして七区(最終区)はそこから木津中までであった。今から思えば壮大なコースであった。大会当日は選手でない人も勉強はなし。太鼓と旗と弁当を持って沿道での応援である。その応援団は町外までは出なかったので、四区を走った N さんは口畑から梅谷までの下り坂、沿道は我が応援団でいっぱい、おまけに町内の一般応援団も含めて声援と高い期待と熱気の中、人の塀が続く道を疾走し、順位を4・5番上げたと言った。つまり一・ニ区は出だしをつまずいたのである。レース後の会話「お前何番やった。お前どうやった」の中で一区を走った I   が言ったのは「あんなん初めてやった。精華の久保と山城の加賀山と木津の奥谷がドンと同時にまるで100mを走るようなスピードで今のリバーサイドまで行ったので、他の三人は走り方がわからんようになった。最後は5番や」。二区を走った T  は「いつも走る時に何考えたらええのかわからへんしガム食べるのやけど、今日忘れた。調子悪かった」。二人ともレース本番で、代表選手とは思えない悠長なことであった。私は五区で24号線を走った。写真付近の沿道には地元の岡崎大人応援団が来ていて今でもその様子と声を覚えている。今では本当に古い ムシロ旗 を振って、「isao!! 行け!! お前2番や。」 2番は私ではない。四区から受け継いだ時も2番だったのである。 

設定テーマ

注目テーマ 一覧

月別リンク

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文