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<<   作成日時 : 2007/03/13 11:26   >>

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平成18年12月議会  私の質問(教育問題) 前回の続編

(質問)
このように問題が山積・噴出する中で行政・教育委員会は学校に対しての指導助言や支援体制は十分なのでしょうか。
(町長)
学校現場の責任は学校長、独立機関として存在する教育委員会、そして一緒に教育を進める立場で行政一般があります。このような認識でやっていますが、学校環境整備に伴う予算の決定・執行は他の部局における事業等と同格に対処しています。指導助言の分野ですが、教育委員会が必要とする内容は吸い上げて検討し、町長部局と同じ内容で対処しています。
(質問)
現場でがんばっていただいている先生方への支援は全面的になされているのかを教育長におたずねします。
(教育長)
中学校におきましては、いろいろな事象や子どもたちへの指導で相当の時間がかかっているのが現状であります。京都府教育委員会にお願いして、9月より常勤の先生を1人、講師1人を派遣していただいております。そして学年支援として1名も9月より入っています。それと町からも数学と理科の講師、心の相談員も配置しています。学校環境整備についても、破損箇所や修理は迅速に対応しています。その他どのような支援が適切なのかは校長先生を通じて、話を聞きながらできることをやってきているのが現状であります。


前回登場の友達の意見では、「結局 問題解決への方策を人員数や破損の修理や整備のハード面だけでとらえている。人数を増やせば良くなる、環境を整えれば良くなるような問題ではない。どのような指導を展開し、どのような学校生活を設定すれば全員の子どもが不満や苛立ちをなくし、落ち着きを取り戻し、授業や生活が楽しくなるのかと言うソフトの問題である。
そして多分どこの中学校の問題でも、中学校に入学してから芽が出て、大きくなったのではなく、その不安定で先生の言うことが聞き流され又は拒否される状況は小学校の時に何かがあったからである。一昔前の校内暴力(昭和の終わりごろ)では、当時小学校の先生が言った「小学校では何もなかったのにな」はそのとおりかもしれない。しかし現況は違うように思われる。つまり中学校がうまくいくようにするには小学校6年間との連続性と指導と発達の過程を
両者が共有することがまず求められると思う。それができるし、しなければならないのが町の教育委員会である。もはや小学校6年、中学校3年ではなく、小中9年間の先生方の話と行動と姿勢が最重要視されなければならない。生徒が先生の話を聞き、敬意をいだくにはどのようにすればいいのかから始めなければならない。」と。


私の友達 N  (岡崎の人) さんの追想より
画像写真は木津高農業科(今はシステム園芸)の家屋
access 入り口よりそのまま北へ。右に体育館左に学食の奥

私たちが在学中の木津高には色々な科があった。普通科・商業科・家庭科・農業科・定時制などである。普通科や商業科は勉強ばかりのような感じであったが、家庭科の教室からは(校門を入ってすぐ左の木造の校舎。男子は入れなかった)料理の匂いやファッションの展示などの影が見え、我々とは違う上品な雰囲気が漂っていた。農業科の人は作業服を持っていて、多くの実習の時間があった。帰り道、山のふもとの田は学校田で秋には鎌で稲刈りをし、取り入れ作業を時間を超えてやっているのをよく見た。丘の上の牛舎や豚舎では慣れた手つきで世話をしていた。のどかな感じでここもまた我々とは違う空気があった。しかし我々にとっての一番の関心は出来たてパンの販売だった。10時か10時半頃に朝からの実習でできたパンを農場で売ってくれたのである。今でも覚えているが、柔らかーイ細ーイホットドッグのパンのようであった。ところが限定販売であったので、その争奪戦がすごかった。二時間目の終わりごろの五分前はみんな本やノートは机の中、dashの体勢をとっていた。パンを食べたあと、それでも腹がへっていたので学食のキツネうどんを食べるのが午前中のおきまりだった。不思議に思うが、何故か先生もそんな時間にキツネうどんを食べていた。農場と内田山で思い出すのが、今日はもう疲れた、授業をサボって隠れて昼寝をしようと農場のすその土手や山の見えないところで寝転んで休憩をとった。昭和の30年代はそれでよかったのかもしれない。

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